無くなり始めた水を汲み足そうと向かった森の泉に、まさか師が居るなんて
思いもしなかった。すらりと伸びた背筋は定規を当てたように真っ直ぐで、
月も出ていない闇の中で曖昧な境界線を象っている。
その周りをゆらゆらとはためく青白い数匹の蝶が、高く上げられた指先を
照らし出している。
不思議なのは、その蝶が師によって作り出された炎であるのに、頼りなく心細げに
漂っていることだ。































君と僕の蝶の叫び


































アラシヤマは無言でマーカーの隣に腰を下ろした。
彼は驚くわけでもなく、突然の来訪者を振り向くわけでもなく微かな風に
揺れる水面を見つめ、掲げた指先から次々に蝶を繰り出している。
「どないしはったん?」
「どうもしない」
ぴしゃりと言葉を絶たれて、気付かれないように苦笑した。
平常どおりの彼が今にも消えそうな炎を存在させることを許すはずが無いのに。
戯れに出したアラシヤマの赤い蝶がぶつかると、マーカーの蝶はまるで煙のように
あっさりと消えてしまった。余りに弱々しいその様子に舌打ちした彼は、ふて腐れた
ように手を下ろす。
小学生のような反応だな、と思いながらなんて失礼な事を考えているのだろうと肩を
竦ませた。まさかマーカーも心の中まで読み取りはしない、と言うか多分出来ない
だろうからビクつく必要は無いのだが。
頭の中を走馬灯のように修行時代の事が駆け巡る。人が死ぬ間際に走馬灯を見るのは
これまでの経験からなんとか対処しようとする働きのせいらしいが、マーカーは
この島に来てすっかり変わってしまったので幼い記憶など役に立ちそうも無かった。
「何を考えている」
「へ」
「さっきから小声で何を言っている?」
悪い癖だ。
いつも一人で居るせいで考え事が全て独り言となって滑り出てしまうらしい。
曖昧に笑みを形作ったところで師を誤魔化せるはずも無く、長い指に頚動脈を
緩く締められて早々に白旗をあげる。
「さっきも言うたけど、何ぞありましたん?」
「…さっきは『どないしはったん』と…」
「揚げ足取らんといて」
「…」
黙ってしまったマーカーに、アラシヤマは顔には出さずに驚いた。
今まで数え切れないくらい言い争いをしてきたが、彼を黙らせたことなどただの
一度も無い。いつも大人の論理と彼の論理を混ぜ合わせた妙な言葉で嵐のように
丸め込まれていたのに。


少しの間優越感に浸ってから、彼がこうなった理由を思い巡らす。
この島で心を揺るがすような事件など早々起こらない、だとすれば対人関係
だろう。彼の上司は、この世の全ての理不尽を詰め込んで余りある人だ。
「ハーレム様と」
「その名を口にするなァッ!」
ご、とマーカーの体全体から立ち上った青白い炎に慌てて身を翻し、安全な木の上
へと避難する。身を包む炎を立ち上らせることは己の技を制御できていない証拠だ、
と口を酸っぱくして言っていた師の姿とは思えない。
おそらくはハーレムが心を占める割合が大きすぎて内に潜む炎まで気が回らないの
だろう。願わくばその感情が愛だの恋だの甘酸っぱいものではない事を神に祈る。
「あんのヤンキー坊やがぁあああああ!」
「え」
「毎日毎日隊長を呼び込みおってぇええ」
「や…ハーレム様がご飯たかりに行ってるだけとちゃうの?」
「黙れッ!」
振り上げたマーカーの右腕から放たれたのは赤い炎だった。驚きながらも自分の炎で
相殺すると、マーカーは荒い息を吐き出しながら合間合間にリキッドへの罵倒を
繰り返す。
どうやら神に見放されたようだ。自分たちの恋愛を幼子の戯れだと一笑にふした師の
行動とは思えない。目の前で汚い言葉を臆面もなく大声で叫ぶ姿はまるで獣だ。
「お師匠はん」
「……」
同情をかけられる事を嫌うマーカーが何も言わないところを見ると、相当参っている
ようだ。弱音を吐いて人に弱みを見せることを何よりも嫌う彼なら、それも仕方の無い
事だ。もし仮にハーレムと彼が望む形の関係になったとしても、自分を完璧に見せようと
するあまり結局同じところに行き着いていたに違いない。
普通であれば何か助言でもしてあげれば一番良いのだが、マーカーがそれを素直に聞く
はずも無いしそれ以前に助言が出来るような自分では無い。
「こないな所で似んでもなぁ…」
「全くだ」
「あら否定せぇへんの?」
「…ふん」
闇に紛れたマーカーの顔色は伺えなかったが、声の感じからして多分照れているのだろう。
アラシヤマが気まぐれに抱き寄せてみても全く抵抗は無い。炎を身に宿す者同士、何処か
不思議な感覚が体を支配する。
しばらくそうしていると、騒ぎ疲れた子供のようにマーカーは眠ってしまった。微かな寝息
が鎖骨に吹きかかり、アラシヤマはくすぐったさに身を捩った。
別に親同然のマーカーに肉欲などは感じないが、たまには一緒に寝るのも良いかもしれない
とアラシヤマが一人ニヤけていると、背後でパキリと枝を踏む音がした。



「…あら」
「あらじゃねーよ、どこぞのマダムかてめぇは」
大声を張り上げる来訪者に向かい、人差し指を口に当てる事で静かにするように促す。
暗闇で尚光る豪奢な金の髪を面倒くさそうにかきあげながら、ハーレムはアラシヤマの
制止も聞かず眠るマーカーを乱暴に担ぎ上げた。
バランスを崩しながら慌てて立ち上がると、マーカーがハーレムに横抱きにされたまま
目を覚まし、再び目を閉じる。都合の良い夢だと思っているようだ。その証拠に、
ハーレムの首に両腕をしっかり巻きつけて顔を埋めている。
訝しげな顔をするかと思ったハーレムはにやにやと笑うだけで、それどころか
すっかり寝入ったマーカーの顔中に軽くではあるが口づけている。見てはいけないものを
見たようにアラシヤマが顔を逸らすと、ハーレムがくつくつと喉奥で笑いをかみ殺している
音が聞こえた。
「…ハーレム様。お師匠はん、連れてお帰りに?」
「何堅ッ苦しい喋り方してンだよ」
「まぁ、一応」
溜め込んでいた不満や不安を吐き出したのは事実だが、その原因がハーレムが自分を
省みない事にあるなら、すぐにまた限界が来る。ハーレムとマーカーがどのような
関係に落ち着いているのかは全く見当も付かないが、一度弱っているところを見てしまって
は放っておけない。
青の一族の理不尽さとつれなさは身に染みてよく解っているのだから。
「何、マーカー取られて嫉妬してんの?」
「そうかもしれまへん」
「ほー」
ハーレムの含みのあるからかいに本心で返しても、彼は余裕に満ちた含み笑いを消すことは
無かった。それどころか変に興味を引いてしまったようで、さらに笑みが濃くなる。
「お前が心配する事は何にもねぇよ」
「…」
「仕方ねぇな、ちょっと分けてやる」
「え、何を…」
続きを言おうと開いた唇が塞がれてしまった。絡みつくマーカーを片手で支えながら、
空いた手でアラシヤマの頭を強引に引き寄せ、噛み付くように与えられた口付け。
瞬間脳裏に浮かんだのは、起きたマーカーに燃やされる自分では無く、不機嫌そうに自分を
見るシンタローの姿。
深くはならずに離されたハーレムの唇を呆然と見やる。他の男と不可抗力とはいえ不貞を
働いた後ろめたさからシンタローの顔を思い出してしまった。しかし何となく、目の前の
ハーレムにシンタローと同じ匂いを感じてしまったことも事実。
「なんや情け無いわぁ…」
「んだよ、不甲斐ない甥っ子のために俺が愛をおすそ分けしてやっただろ」
「わてはええから、その分お師匠はんに解り易く分けたって」
言ってしまってから、しまったと口を押さえる。
余計な気遣いをすればマーカーから文字通り烈火の如く仕置きをされるのは
解りきっているのに。軽率な言動に更に情けなくなり、おそらく面白がっているだろう
ハーレムを見やると、いつの間にか笑みが消えていた。
「ハーレム様…?」
「マーカーが此処に来たのはそのせいか」
からかいを含まないハーレムの声は低く響き、直接脳に叩き込まれたように鮮明に
聞こえる。背中を嫌な汗が伝う。肉食獣に食われるのを待つ動物のような気分だ。
黙ったままのアラシヤマの様子を肯定に取ったのか、ハーレムは大きく息を吐き出した。
同時に張り詰めた空気も一瞬で緩む。
足がぐらつくのを何とかこらえ、アラシヤマはひらひらと手を振って去っていくハーレムの
後姿をぼんやりと見送った。



ようやく当初の目的を思い出して水を汲み、そのまま泉に面した草むらに腰を下ろした。
両膝を抱え込みながら、切れた雲間から差し込む月の光を受けて揺れる水面を
何をするでも無く見つめる。
ふと作り出してみた炎の蝶は、ふらふらと所在なさげにさ迷ったあと唐突に散って
消えてしまった。
「…」
今頃シンタローは遠征の地で和平交渉の真っ最中だろう。穏やかに済むとは思えないが、
彼ならきっと無事に帰ってくる。今回ばかりは出迎えることは出来ない。
そうしていつか、彼は自分を心の片隅から追い出してしまうかもしれない。
現実味を帯びた妄想に、ぶるりと体が震える。
「は…なんやのもう」
マーカーの叫びは想い人に届いた。では、自分は?
心を落ち着けようと生み出した蝶は酷く不恰好で、自分の心情がそのまま具現化したように
見える。徐々に散り散りになって消えていく蝶を見ながら、遠くに居る愛しい人の事を
思った。
どんな形であれ、その心に自分がまだ居ることを願って。












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不定形の炎である程度形が定まった蝶を作り出す、と言うのは結構
精神面に影響されると思います。


うちのマーカーは隊長がロッドとかGを構ってる分には存分に毒を吐き、
本人を目の前にしても「隊長大好き!抱いて!」な頭のネジがはずれたような
テンションを崩しませんが、リキッド絡みだと上辺だけでキレ、一人になったら
こっそりため息を吐かずに悶々と考える子だと…


そこらへんの妙に屈折した愛情表現が弟子であり養い子であるアラシヤマに
しっかりと受け継がれているのです。萌え。



2005.04.13up
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